ヲタク院長のひとり言

2024.12.28 和田病院今昔物語⑤

前回の話で鉄工場の社長を説得した話をサラッと書きましたが、実際はとても大変だったようでした。
昭和の男性、特に社長とか組織の上にいる権威、権力を持つ人はとてもプライドが高かったため、女性に説得されるのは屈辱と受け止めていたようです。
ですので、あの手、この手を考えてなだめたり、すかしたりしながらやっと応じていただいたと話しておりました。
それにしてもそのような大変なバイタリティーはどこから生まれたか、母 澄子を少し紹介させていだたきたいと思います。

昭和7年に生まれた母は、生みの母の子供がいない妹夫婦に預けられました。幼い時から、「ちゃんとしていないと家から追い出される」と強迫観念を持ちながら過ごし、だから誰よりもいい子になろう、優秀になろうと必死に思いながら小学校に通っておりました。

そんな12歳の夏の終わり、日本は戦争に負け終戦を迎えます。
その時のショックは目の前が真っ暗になり、天地がひっくり返るようなとんでもないことだったそうです。
それまで鬼畜米英、1億総玉砕、欲しがりません、勝つまでは、と軍国主義、男尊女卑、統制経済から急に民主主義、男女平等、自由経済、アメリカ、イギリス万歳になったのですから、価値観が本当に180度ひっくり返った凄い衝撃だったそうです。

今までの正義がほとんど全ては悪となり、教科書は全て間違いだと言われ、悪魔の敵国が自由の使いだったと言われればだれでも頭が混乱するでしょう。
また、大人の男達の多くは戦争に負けたショックで自信を失い、深く落ち込こみ元気を失くしておりました。

そんな憂鬱な世界の中で、母は与謝野晶子の一つの詩に触れた時に電撃が走りました。
それは日露戦争中に戦争に赴く弟にあてた詩「君、死にたもうことなかれ (あなた、どうか死なないでください)」。
戦前の日本で、戦争に対し批判的なことをいう人は全て、非国民と蔑まれ、刑務所に入れられてしまう時代に、国家を敵に回しても愛しい弟を守ろうとする晶子の姿に、本当の生きた人間をみた想いがしたそうです。
「そうや、これからの日本は若い女性が作っていかなあかんねん」と固く心に誓ったそうです。
( ちなみに、与謝野晶子は明治から昭和を駆け抜けた作家、思想家で男女平等、個人の自由、経済的自由を訴え、今でいうところのリバタリアン的な人だったように個人的には思えます。)
この晶子の言葉が母に大きな影響を与え、戦前の価値観である控えめな女性から、新しい時代を切り開く強い女性を目指すきっかけとなりました。
焼野原になった学校からの帰路、泣きながら「君、死にたもうことなかれ。君、死にたもうことなかれ。」と連呼しながら歩いたそうです。

しかし、それとは別に母がずっと悩み続けたことは、自分の生みの親、両親についてでした。
特に自分の父はどんな人だったのだろう。
ひょっとすると差別される側の人だったのかも。
あるいは外国の人だったのかも。
一人になるといつも同じ悩みの森に迷い込んでしまう。
だからせめて自分と同じような人達が元気になるようななにかをしたいと切望するようになりました。
大学に進学し演劇部に入り脚本を書き始め、小学校の教諭になってからも小さな劇団にはいり作家活動を続けました。
しかしその間も特に自分の父はどんな人だったのだろうという悩みは持ち続け、全ての差別に苦しむ人達が少しでも元気のなるような作品を書こうと胸に誓ったそうです。
やがて父と結婚し、子供が生まれたときにやっと「ああ、自分はここにいていいのだ」とやっと思えたるようになったそうです。

ところで学生時代に私達兄弟は他の同級生からよくからかわれておりました。
病院の息子なのに、弁当が貧しいとか、服装がみすぼらしいとかよく言われたものです。
たしかに弁当を開けると白いご飯に鮭の切り身一匹だけとか、昨日の晩ごはんの残りのおでんがおかずだったり、フランクフルト1本だけだったりしたので、うちは本当に裕福なのだろうかと思ったりしてました。
このことに対しクレームを付けると「あんたはなにをゆうてるの!あんた達には両親もいる、家もある、それでいったい何が文句あるんや!」と烈火のごとく𠮟り飛ばされたものでした。
ではどうして家が貧しかったかというと、母が困った人達に援助を惜しまずおこなってしまうため、家計はいつも火のくるまだったからです。
例えば戦前、結核は(死に至る病)と言われ忌み嫌われていましたが、結核撲滅のため日赤にも多大な援助をおこなったりもしておりました。
また片親で育った人達やいわれのない差別を受けて育った人達には自分のことのように深く悲しみを感じ、「負けたらあかんで、あんた、絶対に負けなや」と力強く励まし続けたりしておりました。
当時は病院の寮に入り、看護師を目指して来る学生達が多くいました。
彼女らを本当に心配して「親元から遠く離れ、寂しい想いをしながら都会に出てきて看護師を目指すなんて、本当にこの子たちは立派だわ」と深く感激し、自分の実の娘達に接するかのように食事をつくったり、差し入れをしたりして惜しみなく援助しました。

そんなある日、50歳を迎えた時に育ての母から衝撃の事実を告げられます。
「実はお前の両親は私の妹夫婦なんや。でも私ら夫婦に子供ができんかったし、本当の親と思って接して欲しかったからずっと黙ってたんや、ゴメン、ほんまにゴメンなぁ」 …。
「おかあちゃん、なにゆうてんの、生みの親より育ての親や。おとうちゃん、おかあちゃんが自分達の貴重な時間を割いて、お金も使わせてここまで育ててくれた。
おかあちゃんが私にとって本当のおかあちゃんやで」と言って祖母を抱きしめ二人で号泣したそうです。
「もうこれ以上、自分と同じような悩みと苦しみを持つ人が出ませんように。」
その切なる祈りと願いが何度も世界を塗り変えていきます。

昭和、平成、令和の激動な時代を駆け抜けた母は今年の6月に92歳で皆様に見守られ、安らかに旅立っていきました。
最後まで自分のことよりも他人のため、を実践した強くて優しい心清らかな人だったと思います。
そんな母を愛していただき、皆様本当にありがとうございました。


2024.12.13 和田病院今昔物語④

小学校に上がったころ、父親の患者さんから土地を安く譲っていただき、我が家もやっと一軒家を建てることができました。
家の裏は広大な湿地帯で、毎年春になると数百羽の渡り鳥が産卵に訪れ、それは美しい壮大な景観が広がっておりました。

また、それを観にバードウォチャーもよく来られておりました。
その土地は現在、鶴見緑地球戯場として使われております。
その湿地帯に沿って細い美しい川が流れていました。
よくザリガニをとったりして遊んでおりました。

しかし、その川の南端に鉄工場があり下水道があるにも関わらず廃液をその川に流して汚しておりました。

ある夜、母が寝ていると夢の中で白い龍が現れ、しきりに足が痛いと訴えてきたと話しておりました。

ふと浮かんだのが工場からの汚染水。

その鉄工場の近くの新聞販売店の方と共に汚染水を川に流さないよう3年かけてお願いし、やめてもらいました。

その夜、夢のなかで今度は美しく凛々しい男の子が現れ
「今回はそちに大変世話になった。そのお礼に一生守護しょう」
と言ってくれたとか。

母は「いえ、私のことよりも当院にきてくださる患者さん達や職員の皆様のため、何卒よろしくお願いします」と返したとか。

現在、当院2階の元院長室は現在職員の方々の休憩場として開放しておりますが、ベランダに小さい祠があります。

そこにはこの龍神様が祀られております。

なんだか千と千尋のような話なのですが、勿論、信じるか信じないのかはあなた次第です。
ちなみにその鉄工場は廃れていき、ついには廃業されてしまいました。


2024.12.12 和田病院今昔物語③

昭和40年代半ばまで私たち家族は病院の近所の文化住宅をお借りして住んでおりました。
3畳の台所と6畳が二間、それにトイレのみで当時は借家には風呂やシャワーはついておりませんでした。
入浴は週2回から3回、近所の銭湯にいっておりました。
週3回いくと近所の人に「あんた贅沢や」と言われた、と母が言っていたのを覚えております。

当時は住宅ローンといったものもなく、持ち家を持っている人は本当にお金持ちの一握りでした。
そんななかで多くの人はみんな借家暮らしでした。
本当に3丁目の夕日ALL WAYSのような世界のなか、みんなが等しく貧しかったのです。
しかしなぜかみんな明るかったようにも思えます。

昭和44年、その近所の長屋の大工の棟梁のところにテレビが初めて来て、みんなで押しかけ観にいきました。
ラジオと雑誌ぐらいしかない時代に、映画のようなテレビが自宅で観られるなんて本当に凄いなぁ、と感激しました。
野球も実況中継されるし、絵が動くアニメを初めて観て、驚きのあまり呆然としてしまいました。
当時は手塚治虫アニメの全盛期でしたので、もう夢中でしたね。

時代と共に常識は本当に変わっていきます。

当時は飲酒運転に罰則がない時代でしたので、当時のドライバーの多くは、運転席のポケットにウィスキーの小瓶を隠し持っておりました。
もし事故を起こしてしまった時に、そのウィスキーを一気飲みしてお酒のせいにするためです。
また飲酒して人に暴行を加えても、罪に問われなかったため、喧嘩をして相手を殴り飛ばしてからお酒を一気飲みする人も多かったようです。
当時の男性は、酒を飲むまで一言をしゃべらない人が多かったのは、なにか失礼な事を言ってしまったとしてもお酒のせいにできるからです。

私の父親もそんなタイプで、ビールを1杯のむまでは本当に一言もしゃべらない人でした。
それでも病院で患者さんを見るときは人が変わったようによくしゃべっていたのを、いつも不思議に思っていたものです。

5歳の時、長屋の2階の階段から足を滑られ、強く頭を打ったことがあります。
すぐに病院に運ばれ、父親に診てもらいましたが、「瞳孔も対光反射も問題ないから大丈夫やろう。もし脳出血していたら、アカンけど、それが寿命と思って諦めてもらわんと。カッカッカッ。…。」
本当にこの人、僕の父親なのだろうか?と思ったものです。
しかしそれが当時の常識で、CTやエコーのような検査機器はなくできる検査はレントゲンだけで、診断もできない。
脳出血や心筋梗塞、狭心症に対して今のような血管内からの治療等も、精密なマイクロ手術もなかった時代です。
病院でおこなえる治療といっても風邪、腹痛、骨折の治療がほとんど全てでした。
また、今のようにその病院で手に余る病気を他のもっと大きな病院で診てもらえることもなく、自分のところの病院で手術が必要ならおこなうのが当たり前の時代でしたので、大学病院の外科の医局に医師を派遣してもらったり、もしもの時に受け入れてもらえるように挨拶にいくのが常識なのでした。

ですので、大学の外科の教授は絶対的存在だったのです。

まさに白い巨塔の時代ですね。
当時の外科の先生は威張りまくっていた印象があります。

そう思うと現在では気軽に大きな病院に紹介できる、本当にありがたい時代になったものです。
時代の移り変わりとともに、常識やそれに伴う価値観、正義といったものも変わっていくのを最近、しみじみと感じております。


2024.11.13 和田病院今昔物語②

昭和44年頃になると病院前の砂利道に近鉄バスが運行するようになりました。
奈良ドリームランドというディ〇ニーランドそっくりの遊園地が奈良公園近くにできたためのようです。
ドリームランドの人気は凄まじく、土、日曜はバスが満員だったのを記憶してます。
とまれ徳庵駅まで歩かなくなったので本当に助かったと当時の人々はとても感謝してました。

その2年後ぐらいに今度は市バスが蒲生4丁目までから、安田まで運行を伸ばしてくれるようになり、梅田、大阪駅までのアクセスが各段にあがりました。

当時、鶴見緑地のあたりは沼や川だらけの湿地帯。あとは畑と田んぼばかりで、病院の周囲は町工場が多くありました。
朝7時半ぐらいから朝礼が始まり、8時から仕事開始。
終わるのが早くて午後7時半、遅ければ9時、10時。その後、飲みに行くという恐ろしくエネルギッシュな時代でした。

流行っていたCMソングは、24時間働けますか、ビジネスマン~ビジネスマン~でしたから、凄い時代です。
町工場の工員さんがよく指をプレスに挟み病院に来院されてました。
ほぼ原形をとどめていないため、切断するしかなく悲惨だなぁと思っていましたが、なぜか笑顔の人が多い。
聞いてみると、やっとこれで仕事休める。
3ヶ月ぐらい休めるなら軽いもんだと言われてたのを聞き、大人の社会は本当に厳しいんだなぁと戦慄しておりました。

今なら超ブラック企業に認定されそうなのですが、当時はそれが当たり前だったのです。


2024.10.19 和田病院今昔物語①

当院は昭和38年8月に先代 和田忍により開業しました。

私は次男として昭和39年に生まれましたが記憶にある一番古いのは、昭和44年頃からです。
病院は100坪の土地にベッド数12床の診療所で和田外科という呼称でスタートしました。

昭和30年代、診察科も外科と内科と大雑把な分類しかされておらず、外科では腹部外科、胸部外科、脳外科、乳腺外科、頚部外科、整形外科全て含まれるような形だったそうなので、整形外科自体が新しい診療科でした。
なので和田外科です。

先代は大阪市立大学(現 大阪公立大学)整形外科医局にて助手で勤務してましたが、師事していた先生が教授選で敗れ、城北市民病院に出向を命じられていましたが納得できなくて開業したと話しておりました。

先代は股関節骨折に対する人工骨頭手術を得意にしておりましたが、股関節の骨折に対して当時は保存的な治療法がメインで、そのまま立位、歩行できなくなり寝たきりになるケースが多かったそうです。

そのなかで人工骨頭挿入術の手術ができたこともあり、大変な人気を得ました。

そんなこともあり有床診療所から病院へとあっという間に進展していきました。

ところで当時の鶴見区はまだ城東区の一部で、地下鉄はおろか市バスも通っておらず、当院の前の道路も国道ではなく細い砂利道でした。
交通手段は最寄りの駅がJR徳庵駅だったので、歩いて30分かかっていました。
病院周囲も町工場やトラックのターミナル、銭湯が多くあったのを覚えております。


2024.7.1 鼠径ヘルニアとは?

鼠径ヘルニアとは?
一言で言えば筋膜が歳と共に劣化し、張りがなくなったところにお腹の圧力に負け腸が脱出してくる病気です。(いわゆる脱腸) 筋膜は主にコラーゲンでできていますが、年齢を重ねると緊張がなくなりたわんできます。古くなったナイロン繊維(ダウンジャケット、ウィンドブレーカー等)を思っていただければわかりやすいと思います。

また鼠径部(図①;大腿の付け根の腹部側 )はそもそも筋膜が薄いため脱腸の後発部位なのです。
また鼠径部の筋膜に精管、子宮靭帯等が出る穴(鼠径孔)があるため尚更です。
のためこれまで様々な治療法が考案されてきました。

前に述べたように江戸時代までは鼠径部に火傷を負わせ、皮膚を硬化させることで補強する方法もありましたが、 熱傷の後の感染等も考えるとかなり乱暴な方法ですよね。

また手術以外でも、例えば今でも使われているヘルニアバンドもありますが自然治癒するわけではないため、ずっとやっておかなければなりません。

バッシーニー法
明治に入り西洋医学が入ってくる様になると外科手術で治すようになりました 。
1884年エドアドバッシーニーというイタリアの医師によって考案された手術方法は、鼠径部を約6~10cm皮膚を切開し上下の筋膜を引っ張って縫い付ける方法です。
これで鼠径部の補強は確かになされるのですが、元々離れている筋膜を無理に引っ張って縫合するので手術したあとの突っ張り感は半端なく、術後1週間から長ければ一ヶ月は前かがみの姿勢を強いられたものです。思い切って背伸びしたら、ブチィと縫合がはずれ再発、なんてこともよくありました。
なので再発も多く100例中10例前後あったようです。

そこで開発されたのが次に述べるメッシュプラグ法です。
平成5年、米国で発表されました。

メッシュプラグ法
鼠径部をポリプレチレン製のメッシュで覆い固定、ヘルニア穴にもメッシュを丸めて栓にして詰めるという方法です。無理に筋膜を引っ張るバッシーニ法に比べて格段に術後の痛みが軽減したので瞬く間に世界中に広がった革命的な術式です。
ただ原因となるヘルニアの穴が見つけにくいため、特殊なタイプのヘルニア(大腿ヘ ルニア、恥骨上ヘルニア等)を見逃すことがあり、それが再発率にもつながりました 。
再発率は100例中2~3例ぐらいでした。

そして現在、腹腔鏡手術が主になってきました。
1990年頃からあったのですが手術の器具等が整っておらず、それ専用のメッシュも開発されていなかったため広まったのは、手術方法が確立してきた2010年以後になります。

腹腔鏡下鼠径ヘルニア手術
これは腹部に三か所穴をあけ、炭酸ガスで腹部を充満させ手術をする方法ですがヘル ニアの穴が確実に発見できるためやっかいな恥骨上ヘルニアや大腿ヘルニアを見逃すことなく広範囲にメッシュで覆えるようになりました。
また、術後の痛みが激減したため、日帰りから1泊入院で済むようになりました。
とはいえ当院では術後疼痛が麻酔が切れてきたときにかなり強く襲ってくるため一日入院をお勧めしております。
再発率は100例中1例以下になりました。
術後合併症 鼠径部、陰嚢の腫れが機械的操作の影響で水分が寄ってきてきたすことがあります。
ただ多くの場合、約1ヶ月長くて半年もでには自然治癒しますので過度の心配は不要です。

当院では30年間このように変容する鼠径ヘルニアの手術を時代と共に変化させおこなってきました。
そのため様々なトラブルシューテングも蓄積され万全を期すること ができるかと思います。

どうぞ安心してお越しください。


2022.12.22 鼠径ヘルニアの内視鏡手術

当院外科では、鼠径ヘルニアの内視鏡手術をおこなっております。
鼠径ヘルニアとは、平たく言えば脱腸なのですが、紀元前1500年前のエジプトの歴史書にも記載されております。
大げさに言えば人類は有史以来ずっと脱腸に悩ませ続けられていると言える訳です。
現在の外科手術の元になる治療ができる19世紀以前は、包帯固定か程度の強いものになると脱腸と周囲の皮膚に火傷を負わせて無理やり抑え込む方法がなされていたようです。
先人達の苦労があり、現在の治療につながっているのですね。

具体的な治療方法については、当院の鼠径ヘルニア内視鏡手術をご覧いただければ幸いです。